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辻井 飛鳥(つじい あすか)ね。
分かってるとは思うけど。

*




 1.   夕方の喧騒は、彼を永遠に平和な世界へと導かない。




 夕刻過ぎ、満員の電車の中。
 朝の通勤ラッシュのようにすし詰め状態というわけではないのだけれど、会社勤めのサラリーマンや学校帰りの学生たちの帰宅時刻ということもあり、席は優先座席含め全て埋まっていた。車内には携帯電話をいじる音やら学生たちの笑い声が響いて、正直うるさいほど。
 辻井 飛鳥はキャーキャー騒ぐ女子高生を横目にため息をついた。ああ、うるさい。少しぐらい黙ることを覚えろよ……そんなことを思いながら窓の外の風景を眺める。

 性別の分かりにくい名前だとよく言われる。”あすか”という発音から女子だと思われることも昔からしばしばあった。子供のころ、何かを患ったり怪我をしたりして病院に向かうと、間違いなく看護婦さんに”あすかちゃん”と呼ばれた。その病院が初診の場合ならまだ許容範囲。たまに常連の内科でも”ちゃん”付けで呼ばれる――、とそんなことはどうでもいい。
 そんな中性的な名前とは裏腹に、飛鳥の外見はどこからどう見ても男だ。真っ黒な短髪、切れ長の目――、小さい子供が飛鳥の顔を見たら、恐らく泣き出すだろう。
 聴こえてくるノイズ。その全てが飛鳥にとっては邪魔で、思わず耳を塞ぎたくなる。

「でさぁ、隣の席のやつがさぁ」
「ああ、もしもし。今から帰る。晩御飯のおかず? 何で俺が買わなきゃならないんだよ」
「うっそー、マジで? それってやばくなーい?」

 ああ、もううるさいうるさい。
 飛鳥は長く伸びた爪で、電車の窓の桟を小刻みに叩いた。それで黙ってくれればいいものの、女子高生や電話中の会社員には全く耳に届いていない。それがもどかしくて、飛鳥は舌打ちをするのだった。彼にとって、帰りの電車というのは一日で最悪の時間帯の一つであった。
 電車が雑音と汚れた空気でで埋め尽くされる中、駅に到着した。飛鳥は期待に満ちた目で外の看板に書いてある駅名を見るが、やれやれと肩をすくめた。落胆の表情が見て取れる。

「あと三駅もあんのかよ」

 飛鳥はそう吐き捨てると、再び窓の外に視線を走らせた。電車が摩擦音を立てながら、ゆっくりと動き出す。高校生たちの声はおさまるどころか酷くなるばかりだ。飛鳥は一回睨みつけでもしたらおさまるかもという淡い期待を胸に、ぐるりと顔を通路に向けた。飛鳥の目に入ったのは、どぎついメイクをした女子高生でも、髪の毛を茶色に染めて派手なピアスをつけた男子生徒でもなかった。
 飛鳥の目に入ったのは、杖をつきながら手すりにつかまっている老婆だった。飛鳥は吸いつけられるようにその老婆を見つめていた。片手に杖と手すり、もう片方の手に重そうな荷物を持って、喧騒の中に立っている。辺りをゆっくりと見渡したが、誰も席を譲りそうな気配は無かった。

「くそ、この電車の中には心優しい奴すらいないのかよ」

 飛鳥は不機嫌そうに呟くと、すっと立ち上がった。
 目の前に立っている老婆に、その怖そうな外見とは対照的なほど柔らかな笑みを浮かべる。

「どうぞ、座ってください」

 老婆が顔を上げた。疲労があからさまに顔に表れている。飛鳥は指を指して自分の座っていた席を示した。老婆は何も言わず、弱々しく首を横に振った。

「いえ……あなたが座りなさい。私はいいから」

 だが飛鳥が見る限り、老婆はどう考えても座った方が良さそうだった。今にもその場にぶっ倒れそうな表情をしている。電車でぶっ倒れられても困るだろうが、と飛鳥は心の中で呟いた。
 飛鳥は自分のスマイルを崩さないように注意しながら、老婆を軽く促す。

「いえいえ、僕はいいんです。どうぞ」
「すまないわねえ……。それじゃあ、座らせてもらうわ。ありがとう。お名前を教えてくれてもいいかしら?」

 飛鳥は戸惑った。
 見知らぬ人に名前を教えてはいけません。小さい頃から何度も教えられて頭に刷り込まれてきた一言だ。たとえ聞かれた相手が不良の兄ちゃんやらガラの悪そうなオヤジでなくて老婆だったとしても、やすやすと教えることはさすがにためらいがあった。
 それに第一、なぜ席を譲っただけなのに名前を聞かれなくてはならないんだ? まさか住所も聞き出してお礼でも送ろうってか? ……まさか。席を譲ってもらっただけでお礼なんて、虫が良すぎる。飛鳥は体を硬くして警戒した。
 老婆も飛鳥の硬化した態度に気がついたのか、ゆったりとした笑みを口元に広げた。

「いえ、最近の若い子にしては珍しいと思っただけよ。たまにはこういう子もいるんだなあって。だから、ね? 名前だけでも」

 老婆に手を合わせて懇願されては、飛鳥もあっさり断るわけにはいかなかった。飛鳥は俯き加減に、素っ気無く名前を告げた。

「辻井 飛鳥」
「辻井……飛鳥くん。朱音(あかね)高校の子ね?」

 飛鳥は見定めるように制服を眺める老婆を見てうろたえた。段々老婆が不気味な存在に思えてきて、飛鳥は肩を震わせる。いくら朱音高校がこの辺りでは頭が悪い部類の高校であっても、老婆が制服を見て一瞬で校名を見抜くとは思わなかった。飛鳥は目の前に座って体をもぞもぞと動かしている老婆から目を離せなかった。
 ――こいつ、何者だ。
 飛鳥の警戒心が大きく膨らんでいく。普通の老婆にしては何かおかしい。
 老婆も飛鳥の警戒心が徐々に大きくなっているのに気がついたのか、優しく微笑み言った。

「いえ、朱音高校が馬鹿だとかそういうことを言うつもりじゃないの。ただ、高校名を言っただけ。……不快な思いをさせて、ごめんなさいね」

 飛鳥は微笑んだが、老婆がうたた寝し始めたときを見計らい、そっとその場を離れた。
 別に彼女が悪い人だとは思っていない。ただ、不気味だっただけ。見定めるように制服を眺めたあの穏やかながら鋭さも秘めていた瞳孔、柔らかな微笑の中に潜んでいたあの何とも言えぬ表情。

「親切って、するもんじゃねえな」

 飛鳥は電車の扉にもたれかかりながら、大きく息を吐いた。老婆に席を譲ってから立ちっぱなしで、やはり席に座ったままの方が楽だったなと後悔する。恨めしそうな表情を込めて老婆を盗み見たが、老婆は寝息を立てて熟睡している。席を譲ったのにやけに不快感が心の中で渦巻いていて、飛鳥は自分の気持ちがよく分からないもどかしさから舌打ちをした。イライラする。

 飛鳥の標的は隣で喋っていた女子高生のグループに向かう。彼女たちは先ほどから、飛鳥の制服を注視していた。女子高生らの制服はこの辺りではそこそこ有名な中高一貫校のもので、膝より高いスカートが飛鳥の目に入った。
 彼女たちのひそひそ話は、飛鳥の耳にもはっきりと聞こえた。

「あれって朱音の制服……だよね?」
「結構かっこいいのに。馬鹿だと嫌よねー」
「だよねー、萎えるよね。あ、駅ついた」

 女子高生たちは会話をやめ、視線を飛鳥の更に遠くの方に向けた。女子高生は目を細め駅名を素早く確認すると、飛鳥のことなどすっかり忘れ、コンビニに寄るか寄らないかという話し合いをしながら降りて行った。
 飛鳥は女子高生の後姿に舌打ちすると、自分の腕時計を見た。白黒カラーのいたってシンプルなそれは、飛鳥のお気に入りだった。

 飛鳥は特に成績が悪いわけでもない。中の下、といったところだ。それなのに何故朱音高校に入ったのか。それは先生たちもしきりに不思議がっていた。彼の成績であれば朱音高校になど行く必要は無いのに。
 飛鳥がどうしてわざわざ朱音高校を選んだのか。それはただ、他の学校の厳しい規則が苦痛という理由に他ならなかった。朱音高校の規則が緩いから荒れてしまったのだが、飛鳥にそんな考えは必要なかった。朱音高校に入って、気楽に勉強して遊びたかった。ただ、それだけ。
 だから朱音高校の制服を舐めるような目で見る人を見ると、飛鳥は強い不快感を覚えた。その劣等生を憐れむような視線に。冗談じゃねえよ、と飛鳥は悪態をついた。

 しばらく電車に立ったまま揺られていたが、五分も経たない間に駅に到着した。
 飛鳥はため息をつき、うるさい車内ですやすやと眠っている老婆に目を向ける。
 何故だか今日は不愉快なことが多い。よく分からないけれど、いつもより数倍疲れた。老婆に席を譲ったせいだろうか。
 ――親切なんて、するもんじゃねえな。俺のガラにあわねえ。
 飛鳥は自嘲的に笑うと、視線を老婆から駅のプラットホームに向けた。

「だりィ」

 飛鳥はそう呟きながら床に置いていた鞄を掴むと、電車を降りて行った。
 ……まだ飛鳥は知らなかった。老婆に席を譲る。この何気ない親切が、飛鳥の平凡で気楽な人生を大きく狂わせることになるなんて。

 ――そう、まだあいつら以外誰も知らない。
 赤いヒナゲシの存在を。




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